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ナミダカラ・ホシダカラ

異榻同夢(いとうどうむ)の友よ / 2015年4月11日~

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ホリスティック・クリニック(2)

ゴールデン・ウイーク前に予約を入れていたが、
火災警報器の点検と重なり、キャンセルしていた。
(家主さんから点検日の通達が来たのが、1週間を切ってからだった)
(法律で決まっているとのことで、日時の変更ができない)
(家に居て 点検を確認するのが、借家人の義務ということになっている)
(押し入れの天井にも検査器具が入るので、それなりの準備が必要)

気管支炎なのか風邪なのか、酷い咳が出てとても疲れていることもあって、
宿題に持たされた(気が滅入るような)性格テストをやる気にもなれず、
予約を取り直すのに、半月以上かかってしまった。

行きたい所ではないのだ。
受付の人は親切で、感じが良かったが、

インターネットで私が見つけたクリニックで、私が選んだ医師ではあるが、
情報は必要十分だったとはいえず、他に選択肢がないから行ってみただけ。

院長さん(医師)は、インターネット上でコラムを書いていたり、
ホリスティック医学の情報誌に記事が載っていたり、
その世界では長年の実績があるらしいけれども、私は好きで行った訳じゃない。

私は認める。
その場所(クリニック)において、
(医師に対して)良い人間関係を構築する気力と意欲が萎えていたことを。

でも、それは仕方が無いともいえる。
ずっと休めておらず(気が休まらない状態が長い)ヘトヘトなのだから。
自分を休ませることも出来ないほど、混乱して焦っていて、
治療を必要とする状況にあったのだから。

そんな私に対して、医師が何をしたかというと、
検査と事情聴取。

自然の生き物の声や姿に感動することがたまにあり、
それだけが生きてる手応えみたいな話をしたら、

『そういうのは大切にした方がいい』との言葉を頂戴した。
それが、初診のときの 唯一のアドバイスらしいものだった。
私は不愉快極まりなかった。

「それだけが生きてる手応えのようなもの」だと私は言った。
他に代わるものなど何も無い私だった。

それが今の私の、心の糧を得る殆ど唯一の方法で、
大切にするも何も、それしかないと言ったのだ私は。

たとえば死ぬほど悩んでいる人間が、
「水を飲むのが好きで、それは唯一の良い習慣だと思う」
と言ったのに対して医師が、
『それは良いことですね、続けて下さい』と言うのは、
ただの肯定、良ければ勇気づけになるかもしれませんが。

私の言葉の裏には、
(人間以外の生き物にしか、心が許せない)という苦悩があった。

唯一の助言(私を肯定する言葉)が、
その苦悩を大切にしろ?

(そんなことしか言うことがないの?)
私が 内心そのように思ってしまったのも、仕方がないだろう。
疲れの余り全く余裕が無くなったから、私はクリニックに行ったのだ。

その場の主導権を握っていたのは医師だ。
疲れ果てて判断力が著しく低下している人間に対して、
その狂気に決して惑わされず、振りまわされず、
その人間の本質(健全な思考回路)を見抜き、引き出すのが仕事の人だ。

良い人間関係を築けなかった責任の4割は 私にあるかもしれないが、
6割くらいの責任は、医師にあるだろう。

心を重視する治療の場なのに、
悩み苦しんでいる人間の言葉の表だけを評価して、問題に気づかず、
クライアントが凹むような助言をしたのだから。

そんな所には もう行きたくないと私が思っても、仕方がないだろう。
でも、治療には様々なメニューがあり、気持ちが良さそうなのもあった。

勇気を鼓舞して再びクリニックに予約を入れて、行ってきた。
しかし パンフレットに列挙されている鍼などの治療は、受けられなかった。
(全部 保険外とのことで、医師は私に『そこは見ないように』と言った)

だったら、貧乏人用のパンフレットも別に作って置いたらどう?
期待だけ持たされて、ガッカリさせられる人間の心はどうでもいいのか?

性格テストの結果は、
『グラフが平なので、元気が無いことが分かります』だそう。
それだけ?
労多く、得るところ無しという感じ。

15分程度の診察というか、問診というか、事情聴取では、
「道端の危険な外来植物(アメリカ鬼アザミ)を、重武装して刈り取った」
ことを話し、
「そんな屋外活動は危険を冒してでも遣るのに、家事が苦痛な自分」
に、困惑し困っていると、私は言った。

『良いじゃない』と、医師は言った。
『腕の良い医者で、部屋が雑然としてて平気な人など珍しくもない』
『部屋が整理整頓されているからって、それが何?』
『価値のあることが出来れば、それで良いのだから』
『有害植物の駆除ね、ふーん』
『良いじゃない』

好ましからざる思考回路に陥って、
劣悪な環境に適応しようとするかのような、体質というか癖というか、
それがあることを自覚していても、脱却できないでいるとボヤいたら、

『それは価値がないことだから止めれば良いことでしょう』
『徐々に止めていけば良い』と、医師は断定した。

私は違和感を覚えた。


家の軒下に生える草の何割かが、
うどんこ病や 縮れて奇形になっている。

その原因は、
土の中に埋められていた(前の住人が投棄した)乾電池などのゴミや、
昔、大家さんが散布していた除草剤の影響のような気がする。

不自然な金属や薬剤の影響を無毒化するために、
解毒するため浄化のために、草が命を懸けて病を引き受けている。
そのように私には見える。


自分の病については分からない。
自分が軒下の草のように 健気な愛にいきている生物とは、全然 思えない。
だから、自分の場合は当てはまらないと思うけど、

人類全体の何かを浄化するために、病を引き受けている人も、
存在するかもしれないと私は思っている。

病んでいること
=価値がない
=消していけば良い?

健康でありたいとは思うが、
価値のある無しで、捨てるか否かを決めることには、
私のトラウマが過剰反応する。


親にとって価値がないからという理由で、殺されかけた自分。
黙って殺されておけば どんなに楽だったろう。
全然、逆らうつもりが心に無かったのに、
何故か抵抗して、心にもない謝罪の言葉を繰り返して生き延びた。

心を捨てて、
価値がない(親の期待に応えられない)にもかかわらず、
死(排除されること)は拒否した。

それが私の罪悪感に繋がっているのだが、それだけではなく、
「価値があるとか無いとかを、他者に決められてたまるか!」
(たとえ相手が 権威者だろうが 医師だろうが)
と、強く思うようになった気がする。


これ以上、心が かたくなになったら、治るものも治らないだろう。
月に1度は通院するのが目安と言われたので、来月も予約を入れたけど、
他の選択肢が現われることを、切に希望する。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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