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ナミダカラ・ホシダカラ

異榻同夢(いとうどうむ)の友よ / 2015年4月11日~

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実生のリンゴ

 写真 : 左から10日前(未明)、4日前(深夜)、今朝


    
 芯の中で 既に しっかりと根を出していた 個体「L」 根元が曲がっている
  

    
発見時は、根が2ミリ弱だった 個体「I」 屈折が少ない

 
双葉の形が独特だった。三ッ葉を双葉に組み直したみたいで、
片方の葉が、もう片方の葉に包まれたような格好で出て来た。
どちらの葉っぱも、縦に2つに折りたたまれていて、
片方が鞘(サヤ)みたいだった。
≪ 二重の山括弧のようでもあった ≫
 
外側にあった葉っぱ(鞘っぽい)には、
何故か、折れ目の縁に 切れ込みがあった。
誰かが刃物でつけたような、鮮やかな切れ込み。

 
北の窓辺(台所の外)は、樹木の苗を育てるのには適していないと思うけど。
劣悪な環境に負けず、幸せそうだ。

よい未来が拓けるといいな。
(愛情豊かな人のもとで、安心して生きてゆける未来が)

山蔭基央師(植物が喋る話 1:14:31~1:16:34 辺り)
 




 
 
 
 
 

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スタイリッシュな友

2週間前の真夜中
大きくて 動きの速い 黒光りする虫が 部屋に入ってきて、
壁に掛けてあった バスケットの中に潜り込み、
そこが自分の寝床であるかのように、居座った。

(もう眠いというのに…)
(巣にされては困る…)

バスケットを持って、外に出た。
人家から遠い所で、バスケットを逆さにして、黒い虫を追い出した。

帰る途中に、脱皮したばかりの蝉を見た。
街灯の光を浴びて、全身が薄い緑色(青味がかった薄緑?)
この世のものとは思えぬような、神秘的な美しさだった。

可愛いとは思えない黒い虫に操られ(案内され)…
驚くほど美しい虫を見た。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

火曜日の夕方、西に向かって自転車で家路を急いでいたら、
道の真ん中に蝉が寝ていた。

一見したところ、もう魂が抜けた後みたいだが、
蝉は、地べたで仰向けになって休息することがある。
(もう暗くなるのに、こんな所で休んでいたら、踏まれてしまうぞ)

手袋した右手を近づけたら、瞬時に人差し指にとまり、
私が手を翻したら(もうそれが離陸態勢なのね)
あっという間に高く飛び去って行った。

怪我して手袋した人間、
蝉の生態に興味・関心があって、手を近づけてくる人間(私)が、
通りかかることを、知っていたのか?
それとも、私が操られたのか?
 
人が意図したことじゃない。
私が助けた訳じゃない。(虫が 人を、足場に 使った だけ) 

面白い人生は 大いに歓迎するが、  
蝉の恩返しなどを期待したら(私は)、卑しい貌になってしまう気がする。

いざという時、瞬時に飛び立てる蝉のように、
身軽でありたいから、
過去の出来事に 心を残すまい。

taigu 和尚さんの 一問一答







自らの翼に由って、雀の親子は アパートの巣から 去った

植物の世界に 潜在自然植生
(せんざい
しぜん しょくせい:Potential natural vegetation)が あるように、
ヒトの世界にも、自然体で生きる道が ある気がする。

だから ホマレさんも、
他者の リクエストに 応える 必要など ないのです。
(私の問いかけに 応答するもしないも自由)

みずからが【Potential natural】な 人生を送っている
真の【
Therapist】以外の言葉は、適当に受け流せばいいのです。

あなたが動けば、あなたは得るでしょう。
手応え(ひとりで得られる感触)と、 波紋(他者からの反応)を。

それらは 心の食べ物だけど、
すべてが滋養になるとは限らない。

野菜のニラでも、針金のように固くて食えない葉っぱがあった。
サバの水煮の缶詰には、糸ミミズのような虫がいたこともあった。
そんなもの、あえて食べる必要はない(分別して土に還していい)のです。

だから、
行動に対する
他者からのフィードバックが、極端にネガティブだったときは、
魚の寄生虫の類だと思って、分けて清めれば良いのです。

貴女が誤解してたことが2つある。
① 貴女との遣り取りで、私が傷ついた という誤解。

何度か「 違う」と申告したけど、分かって戴けなかった気がする。
最近(5年くらい前から)私は、単純な感情しか覚えなくなってる。
だいたい「うれしい」とか「悲しい」、「悔しい」、「たのしい」
「苦しい」、「空腹だ」、「寒い」、「熱い」、「きれい」、「きたない」
…そのどれかに収まってしまう。

幸か不幸か、繊細な感情(心が痛い等)は、分からなくなってしまっている。
そんな私だから、
模擬カウンセリングの練習台には、ちょうどいいだろうと手を挙げたのです。

だから、特に期待せず【模擬 Client】になりました。
【模擬 Counselor】に 1年以上放置されても、凹むこともなかったです。
 
でも、頭の中に「?」マークが残っている。
昔、知人に『今度、郷里の料理をご馳走します』と言われた、でもそれっきり。
そのときと同じ気持ちです。
別に契約書を取り交わした訳じゃないし、私から懇願したことでもないので、
「わくわく」するのは間違いだ、大人じゃない。…そう考えているのだが、

どうやら私は 大人気ない人間らしい。
たとえ口約束でも、言い出した人の都合で 話を終わらせるなら、
理由を説明して貰えないかな?
頭の中の「?」を消すのに 協力してほしい…と思う。

② 私が 貴女を軽蔑するかもしれない という誤解。
(欠点だらけの私は、いかなる人に対しても 軽蔑できるような立場にない)

反骨精神の塊だから、
権威を誇示する人の 醜悪な振る舞いには 嫌悪を覚えるし、
脳や財布に 余裕がないから、
育った土地で使われていた 汚い言葉が出てしまうことがあって、
人をギョッとさせてしまうこともあるけど、

たとえ極道者が毒づいているような、傲慢な姿の私が出現したとしても、
表面のことに気を取られたら、判断を誤りかねません。
他者を蔑視するなど、私には 思いもよらぬことです。(そんな余裕も無い)



















Good luck and good bey

 
コナラの1粒種は、すくすく育っていたのが、
突然、夏に…
 
枯れちゃった。
根詰まりして、窒息。
 
一昨年の秋に、1リットルは ありそうな ビニールポットに培養土を入れて、
ドングリを寝かせ、防虫効果のある 青森ヒバの オガクズで上を覆った。
ポットの底には、1円玉くらいの穴が開いていた。
 
その下には、木製の大型のプランターを置き、
土を たくさん 盛っておいた。

親の木は、真っ直ぐに 根をおろし、
ビニールポットの下の、中型のプランターに 根を張り、
花実をつけた。

親木と同じ場所(日影)に置かれた 子が、
1年足らずで、枯死するなんて、…

植物にも、
意識のような、感情のような、魂のような ものが あることを、
愚かな私は 知らなかった。

ポットが 接する プランターの 表土の下に、
私は、薄く 炭を埋めていた。

それは、親木の育ったプランターの底に 敷いてた板状の木炭で、
あの強く 逞しい 樹の子どもなら、
ちゃっかりと 隙間を突き抜けて、根を張り 生き抜くと思ってた。

「控え目にね」
「余り伸びると 切り殺されてしまうから」
ポットを置くとき、私はそう念じた。

春に芽を出し、
背丈を伸ばすのを遠慮して、…
その代わりのように、脇芽を出して、

主根は、ポットの底を 時計回りに 何重にも巻いて伸びていた。
枝根は ポット内に充満していたが、底の穴からは1ミリも出ていなかった。

親木の臨終の記憶が、その子に伝わり、
斬り殺されまいとして、親と違う生き方を選ばせた。
そうとしか思えない。

親の樹の記憶が、どうやって子に伝わったのか、
場所に残されていたのか?
炭や土を介してか?
直接、種子に託されたのか?
…それは分からない。

…枯れるまで気づかなかった、愚かな私を、
…許しておくれ。
 

林檎の兄弟は、北向きの窓辺で控えめに育ち、

秋に葉を落とし、

林檎を差し入れてくれた人の家に、引き取られていった。

良かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

   
   
   

トキさん

斎藤隆介著「トキ」
十代の前半に読んで、辛くなった。

これが お前の未来の姿だと、誰かに言われた気がして、
夢も希望もない子どもには、受け入れかねた。

好きな物語なのだが、
そばに 優しい お祖母ちゃんがいる「トキさん」だからこそ、
容貌のせいで腐ることもなく、生涯 元気で畑仕事に勤しみ、
独り身でも、周囲の人に慕われ、幸福に暮らせた。

自分のことで精一杯の大人しか周囲にいなくて、
助けを求めても、頓珍漢な説教が返ってくるだけの世界にいて、
「トキさん」のように、純真では既になかったし。

惜しみなく、源泉かけ流しの温泉みたいに、
難しいことは何も言わず、優しさと温かさを醸し出している。
そんな「トキさん」のように、どうすれば なれるというのか。
条件付きの愛情しか、与えられた記憶がないのに。

そんなことしか考えられない餓鬼だった。
見返りを求めない愛情の恩恵には、
気づかなかっただけで、自分も あずかっていたということは、
最近になって、多少は認めれらるようになった。

(遅すぎる)

腸内細菌みたいなものじゃないかと思う、人の世も。
悪玉菌と 善玉菌は 少数派で、

日和見菌が 圧倒的に多くて、理解も得られやすく、
悪に引きずられもするが、余裕さえあれば 多分、善良に生きられる。
 
悪玉が のさばると、
石が流れて 気の葉が沈むような、狂った世界が 出現するのだろう。

防犯のために、すべての挨拶を 禁ずるとか、
防犯のために、目立たないことを 最優先して生きろとか。
そんな教育は 変だ。

イスラム教徒が 物凄い勢いで増えているのは、
日和見菌を大切にする工夫が 凝らされているからだろう。

イスラム世界では、弱者・障碍者が、卑屈にならずに済む。
強者の驕りや強欲を中和して、天国に近づける尊い存在だから。

自分が悪玉菌に生まれるか、日和見菌に生まれるか、
善玉菌に生まれるかは、選択できないとしても、

日和見ヒトノコ菌は、
悪玉に だまされないように「考える」必要があると思う。

悪玉ヒトノコ菌は、
自分たちが世に憚れば どうなるか「学ぶ」必要があろう。
(そう自覚して、私は学んでみたですよ)

善玉ヒトノコ菌で 生まれた人は、
「勇気」を出して、旗を立てなされ。